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英語社会は結果重視?日本人が誤解している「成果主義」の意味。

英語と文化

ところでプライベートなことですが……。

現在テック系のオンラインスクールで、データサイエンス・機械学習の勉強をしています!本当はオーストラリアの学校というものに通ってみたかったのですが(笑)、学費と学べるスキルを検討した結果、オンラインでよいコースを見つけたので、そっちを選びました。

私が受講しているのは、Udacity というアメリカ発のテック系スクールです。ただ講義ビデオを見て学習するだけではなく、テーマごとに、Pythonというプログラミング言語を使ったデータ解析のプロジェクトに取り組みます。アウトプットはレビュアーがチェックし、フィードバックしてくれます。

一応、基準を満たしていないとパスできないし、決められた期間内にプロジェクトを終わらせないと修了できず、クラスルームから締め出される~(汗)……結構真剣勝負です!(そんなわけでブログがあまり書けません 苦笑)

また、データの一連の分析と予測を、ビジュアルと文章で説明するので、英語の記述力が要求されます。内容は面白くてやりがいがありますが、長らく学びの場から遠ざかっていた身としては、キツイ~(笑)

毎日ヒーヒー言いながら取り組んでいます(笑)。

 

そんなふうに、アメリカのスクールで学びながら、感じたことがあります。

特にIT系の業界では、従来のような「学歴」や「経験」重視ではなく、「成果主義」が顕著だと一般的に考えられていると思います。また、海外では、「地道な努力をしても、結果が出なければ評価されない」というイメージを持っている人は多いと思います。

確かに、アメリカやオーストラリアの社会は、成果に対してよりシビアな側面はあるかもしれません。

が、正直私が思ったのは、「日本人が考える成果主義とは違うなー」ということです。

 

海外では、能力や成果といった「結果」だけが評価の基準になり、努力や頑張りは考慮されない、と、私達日本人はイメージしていると思いますが、私自身は、それはちょっと違うな、と感じています。

それはどういう意味なのか?ということを、私なりの経験から書いてみたいと思います。

 

答えのない問題を解くために求められること

私がオンラインコースの学習をする中で、いつも、何度となく問われるのが、「なぜ?」という質問です。

特にITだからかもしれませんが……。「答えのない問題に対し、自分なりのベストな解決策(solution)を出す」ことが求められます。

たとえば、

Q:この問題を解決する場合に、A、B、Cのアルゴリズムのうち、どれが一番よいか?

という問題があったとします。

その時に、必ず求められるのが、「なぜそれが一番よいと考えたのか、を説明する」ことです。

もちろん、「なんとなくそう思った!」ではちょっと、ダメです(笑)。

  • それぞれのアルゴリズムのしくみを説明した上で、この問題を解決するにはこれが一番適している、と判断した。
  • 実際に3つのアルゴリズムを試してみて、これが一番結果がよかったから採用した。
  • 参考資料(論文や信頼できる記事、ウェブサイトなど)で、~と書かれていたのを参考にした。

……などなど、何かしら筋の通った説明をしなければなりません。

提示された3つのアルゴリズムのうち、実はどれを選んでも目的は達成できます。だからこの場合、「どれが正解」ということを当てるのがこの課題の目的ではないのです。

このような問題が幾度となくありましたが、ここで求められているスキルというのは、「色々選択肢がある中で、どれが一番良い解決法か?を自分で判断すること。そしてそれを、人に説明できること。」なんだろう、と私は思いました。

具体的な、信頼できる判断材料を丹念に集め、総合的に判断すること。そしてそれを言葉で説明すること、なんだと思います。

 

これは、オーストラリアの学校教育を見ていても、感じることです。

たとえば、こちらの小学校では、自分のことを人前で話す「Show and Tell」という活動がよく行われます。

クラス全員の前で、与えられたテーマについて話します。子どもなので、テーマは「自分が好きなおもちゃ」とか、「自分が好きな本」とか、「今まで行った場所で好きな場所」とか……。子どもらしいといえば子どもらしいですが、肝心なのは、「なぜこのおもちゃ/本/場所が好きなのか」を必ず盛り込む、ということです。

これについては、以下の過去記事でも少し取り上げています。

英語ネイティブが話す時、becauseはどう使う?基本の使い方。
学校の英語の授業でも習うbecause。文法書の説明を読むと難しく感じるかもしれませんが、ネイティブの日常会話の中では非常に気軽に、そしてよく使われます。ネイティブ英語の中ではbecauseはどんなかんじで使われるのか?雰囲気と使いこなすコツを紹介します。

小さいうちは、たとえば「このミニカーの色が好きだから」「このお人形のドレスが好きだから」など、ごく簡単で主観的な理由づけをしますが、年齢が上がるにつれ、その理由づけは進歩していきます。たとえば、「自分の好きな場所」というテーマだったとしたら、『この場所に関するユニークな事実(Fact)(たとえば歴史や人口、自然環境、建造物など)』について事前に調べ、それを紹介しながら「こんなにユニークな場所だから、自分はそこが好きなんだ」という話を展開するようになっていきます。

さらに年齢が上がってハイスクールになると、あるテーマについて「賛成か・反対か」といったエッセイを書くようになりますが、やはり自分の経験や、調べたことなどから、論を展開し、結論を導いて文章にまとめます。

この場合、設定されたテーマについて「賛成」「反対」そのものには、正解はないし、どちらを選んだかは評価の対象にはなりません。大切なことは、自分が「賛成・反対」だと思うための、適切な根拠が示されているか、そこから適切に判断が導き出されているか、という部分です。

正解そのものも大切かもしれないけれど、それ以上に「なぜそういう答えになったのか」「なぜそれが良いと考えたのか」を説明することの方が、より重視されています。

逆に、たとえ「ちょっと普通じゃない」答えを出したとしても、その答えを導いた根拠があり、筋が通っていれば、わりとリスペクトされる面があると思います。

 

日本の場合は、教育の中でも、社会の中でも、「なぜそう考えたのか?」「なぜその答えを選んだのか?」を問われることはあまりなく、どちらかといえば「答えが(正解に・上司や先生の考えに・今までのやり方に)合っているかどうか」が重視されているのではないか、と個人的には思います。

 

過程があるから成果がある。

また、「欧米は成果主義・能力主義」と言われることから、こちらの社会では「がんばっても考慮されず、成果だけを見て評価される」というイメージが強いと思います。オーストラリアの学校でも、学業に対する評価は厳しく、義務教育でも一定の成績が取れないと留年になります。

しかし、私がこちらの教育に触れて感じたのは、「意外とこちらでは、『努力』や『過程』が評価されるんだな」ということです。

どういうことか、というと……。

たとえば我が子の学校のレポート(通知表みたいなもの)を見ていると、よくわかります。生徒の成績が良い時、もちろんそれ自体よいことですが、「一つ一つの小テストやレポート提出などを、きちんと全て真面目に仕上げたことが、この評価につながった」「いつも熱心に、積極的に学習に取り組んだことが、この結果につながった」などのコメントが必ずあります。

 

私事ですが、先日、パースのダンスコンペがあり、娘のハイスクールのチームも出場しました。うちの学校は選択科目にダンスがあり、そのメンバーの中で、さらに有志が集まってチームを結成。娘も加わっていました。

顧問の先生はコンペ出場の手続きや、練習場所の確保など、マネジメントを担い、選曲や振付などは生徒達自身が行ない、メンバー間で教え合って自主的に練習していました。

そして素晴らしいことに、チームは、コンペのある部門で 優勝 しました!

私もコンペを見に行きましたが、チームとしてそのパフォーマンスは、迫力と熱意に溢れた素晴らしいものでした。

後で、顧問の先生に「とても素晴らしかった」と伝えたところ、先生は、

「彼らは本当に、それはものすごく熱心に練習したんです。だからこの結果は彼らにふさわしいと思います(They deserve it!)」

とおっしゃいました。

「上手い」とか「成績がよかった」ことよりも、「ものすごく熱心に練習した」ことこそが重要であり、それが必然的にこの結果につながった、という先生の言葉に、感動しました。

こちらでは、「成果を出すには、そのために必要な過程があり、それを一生懸命、一つ一つ、真面目に確実に積み重ねたからこそ、成果が出る。」という価値観があるように思います。

 

また、私自身も、オンライン学習のプロジェクトのレビューが返ってきた時、とてもよい評価をいただいたことがありました。フィードバックのコメントでうれしかったのが、「一つ一つの問題を、注意深く、確実に、手を抜かずに取り組んだことが成果に表れている」という部分でした。そして、

You should be proud of yourself!

とありました。

結果の良し悪しより、「自分が全力で取り組んだことを認めてもらえた」ことが、すごくうれしかったです!

 

もう一つ、日本の人は意外に思うかもしれませんが、「(その課題を)楽しんで取り組んでいる」「情熱積極性がある」というところも、価値を置かれていると感じます。物事に対し、探究心を持ち、労を惜しまず、より良い結果を追求する、という姿勢が評価されるのだと思います。自分から興味を持ち、強い目的意識を持って問題解決に取り組むことが、良い成果を生み出す、という考えがあると思います。

日本の方が結果重視?

こうして見ると、英語圏における評価基準は、日本人がイメージする「成果主義」とは、ちょっと違うのではないでしょうか?

むしろ、日本の社会の方が、プロセスよりも「結果」が重視されている、と私自身は感じました……。

小学校からテストの点数で成績が評価されるし、私自身、クラスの中で人と違う答えを言ってしまうことを、すごく躊躇した経験があります。なぜなら、皆と違うことを言ってしまうと、けなされたりバカにされたりするから。

日本の社会の中では、その人が何をどう考えてその結論を出したのか、よりも、その意見が人と同じかどうか、平均と比べてどうか、の方が重視されるように思います。

また、意外にも日本の方が、「過程」が評価されていない、と感じます。

成果を出すためには、その前にある種の「失敗」を経験することも必要ではないでしょうか?

こちらの場合、自分の結果や結論に至る過程で、「失敗」をすることも、それも努力や行動の表れとしてポジティブにとらえられます。ただし、それを振り返り、なぜ失敗したのか、を検証し、改善につなげることが重要なのですが……。

こうしたプロセスは、成功するために、また、結果を出すために、欠かせないことです。

こちらの教育や、自分自身の学習を通して感じるのは、「失敗」もしてみること、そしてそれを自分で検証すること、が重要視されているな、ということです。

しかし日本では、「失敗」をすることがあまり認められていません。いつでもそこそこに「よいアウトプット」をすることが求められています。少しでも失敗すると、「失敗」=「結果を出せなかった」として責められてしまいます。だから、多くの人は「失敗」を悪いことととらえ、あまり「失敗」をしたがりません(私自身もそうでしたが……)。

自分で「よりよい成果」を追求する(ために失敗にも果敢に挑む)ことよりも、失敗をせずにそこそこの成績を出そうとしがちです。

むしろ、日本の方が、「成果を出すまでの過程」に注目せず、成果そのものだけに着目して人を評価しているといえるのではないか、と私は思いました。

 

まとめ

英語圏では、

「一生懸命、真面目にやる」

「情熱を持って取り組む」

こういった姿勢が評価されることに、ちょっと意外性を感じた人もいるのでは?

真面目さや一生懸命さ、は、日本人の特性、とよく言われますが、それなら日本人はみな、世界で活躍できるのでしょうか?真面目で頑張り屋であることを評価されるためには、何が必要なのでしょうか?

日本では、「真面目」「一生懸命」というと、自分の生活や趣味を犠牲にして、他のものを我慢しながら苦痛を耐え忍んでやりとげる、という「イメージ」が浮かびますよね。

でも、英語で「真面目」「一生懸命」「熱心」……という場合、「目的を達成するためのプロセスを、確実に、向上心を持って、ベストを尽くして行う」ことといえます。(英語で「真面目」の言い方は?の過去記事もぜひ

だから、「~という目的を達成するために~を(量的に)どのくらいやった」と示すことで、はじめて「一生懸命やっている」と評価されます。目的を達成するために、何をどう「一生懸命」やったのかを、具体的な行動や実績で示すことが大切なのです。

逆に言えば、こちらでは、目的達成に近づかないことをいくら「苦痛に耐えて」やっても意味がないし、それは一生懸命とは評価されないのです。

おそらく、この部分が、「成果主義」「結果主義」と言われるゆえんなのだろうな、なんて思います。

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