「日本人は英語を学ぶ必要はない」論を英語の国から考えてみた。

先日、ふとネットで、こんな文章を目にしました。

英語の未来|内田樹の研究室

哲学研究者・思想家・武道家で知られる、内田樹さんのブログです。

「日本人は日本語ができればよい(=大多数の人は、英語ができる必要はない)」という意見について触れられており、興味深く読みました。

最後の方に出てくる「自動翻訳が発達するから」という考えについては、まあそうかなぁ、という感じ。日本に住むことを考えれば、海外の人と英語で話す機会は生涯にどれだけある?という感じなのもわかるし、時間をかけて英語を学ぶより他のことを学び、英語はグーグル翻訳でOK、と考える人も、まあそれは個人の判断かな、と思います。

ただ、「英語による植民地化」「英語による階層差別」といった指摘については、今や英語環境で必死こいて英語を学びながら、子育てし、生活する私にとっては、ちょっと複雑な心境になりました。

でも、このブログ記事に限らず、こうした見解は実はしばしば目にします。

「日本人は、英語を学ぶ必要はないんじゃないの?」

「日本人が英語を学ぶメリットってホントにあるの?

それどころか、

「英語教育のやり過ぎで日本はダメになる?

というような感じの意見も見かけます。それはいったいなぜ?

今回は、こういった「日本人は英語を学ぶ必要がない」論について、私なりの思いを書いてみたいと思います。

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「英語至上主義」は日本の危機?

英語教育についてよく見かけるのが、

「言葉と文化は大きく関係しているので、行き過ぎた英語教育によって日本の文化、日本の独自性が廃れる

というような意見です。

中には、こんな甘いものではなく、「日本という国がアメリカ(英語圏の国)の植民地となるのを、自らおしすすめているようなもの!」と警告する専門家もいます。

たとえば過去に、施光恒・九大大学院准教授が書いた『英語化は愚民化』という本が話題になりました。

英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる (集英社新書)

↑Amazon.co.jpへのリンク。ちなみに関連書籍のタイトルを見ると、これまた興味深いです。

私は、本自体は読んでいませんが、インタビュー記事をいくつか読んで気になってました。

施光恒・九大大学院准教授「英語押しつけで日本人は愚民化」|日刊ゲンダイ

こうした意見を目にするたび、「英語を学ぶ必要がない」どころか「英語を勉強することは非国民?」という気持ちにすらなり、私は複雑な思いを感じていました。

特に、「言語は私達の知性感性世界観を作っている」「(日本語の特性が)思いやる文化(という日本独特の文化)を作ってきた」というくだりがインタビューにもありますが、このような考えはわりと一般的に受け入れられていると思います。

私自身は、日本語と英語、どちらが優れている・劣っている、という議論については、まったく不毛だと思いますが……。

母国語とは人間にとってどんな意味があるか

ところで、「言語は、その民族の文化の源である」と考えるのは、日本人だけではないんですね。

私は最近、こんなオーストラリアのニュースを読みました。

‘Learning my first language completed the void I had in my life’ | SBS

オーストラリアでは、18世紀後半にイギリス人による入植が始まりました。白人の国、というイメージのオーストラリアですが、イギリス人が入植するそのずっと前から、オーストラリア大陸には原住民族が暮らしていました。

日本では、彼らのことを「アボリジニ」とひとくくりで言いますが、実際には、地域によって多数の民族にわかれており、それぞれに豊かで多様な、独自の言語や文化、習慣を持っていたといいます。

しかし、入植してきたイギリス人が、アボリジナルの人々を迫害していったことは知られた事実です。

さらに20世紀前半には、アボリジナルの子ども達(白人とのハーフを含む)を、親元から引き離し、強制的に英語教育や白人文化を教育させるということが、政策として行われていました。こうして多くのアボリジナル言語が、次の世代に受け継がれる機会を失い、消滅して行ったそうです。

(こうした過去を経て、オーストラリア政府は2008年に、アボリジナルの人々に対し、公式に謝罪を行いました。現在のオーストラリアでは、アボリジナルの人々の文化を尊重しようという価値観が浸透しています。ただし過去の遺恨が完全に消え去ったわけでもないようです。)

この記事に登場するMandyさんは、アボリジナルの血筋を持つ研究者です。しかし彼女自身は、自分のルーツである Wurundjeri人が使っていたアボリジナル言語 Woiwurrung language を知らずに育ちました。彼女は18歳から、(自分のルーツであるはずの)その言語を学びはじめたそうです。Woiwurrung languageで話す時、彼女は自分の先祖にレスペクトを感じるといいます。

「自分の言語(Woiwurrung language)を学ぶことで、私が人生の中で抱えていた『欠落感』が埋められた

と彼女は語っています。

“Culture is the tree and language is the roots of the tree. If you chop the roots off then culture dies.”

文化は木、そして言語は木の根。根を切り落とされれば、文化は枯れる。

この話は、人間にとって「母国語とはどんな意味を持つのか」ということを考えさせられる話です。

海外で知った母国語の尊さ

思えば私自身は、日本にいる間、「自分の国の言葉」について、そんなふうに考えたことはありませんでした。

むしろオーストラリアに来て、このような価値観に直面することになったのです。

パースは移民の多い都市であり、さまざまな民族が集まって発展している場所です。こちらでは、多くの人が「英語」という共通の言語で仕事やコミュニティに参加しながら、家庭では自分の国の言葉を話したり、母国の食やライフスタイルや宗教を維持している人も多いのです。

そうしたさまざまなスタイルが持ち寄られることで、バラエティに富んだ豊かな文化が育まれています。

こちらの学校教育の場では、生徒それぞれが母国の文化や食を紹介し合う機会が、学習の中に組み込まれます。オーストラリア人がオーストラリアを愛するように、どの人にも大切な母国がある、という価値観を教えられます。

こちらでは、もちろん社会は「英語」を共通語としているし、一定の英語力を身につけることが必要不可欠とされています。それはおそらく、「英語圏に住む」ということを想像した時、多くの日本人が想像できることでしょう。

しかし同時に、「母国」というものは人々にとって精神の拠り所となる大きな存在だということ、「自分の国の言葉を失う」というのは、アイデンティティを揺るがすほどの大きなものなのだ、ということについて、私自身はオーストラリアに来て、初めて考えたのでした。

私達日本人は幸運なことに、

「日本人は●●を禁止される」

「日本人だから逮捕・監禁される」

「日本語をしゃべったら処罰される」

といった経験がありません。

だから、自分の国を否定され、自分の国の言葉を奪われることの苦痛や悲しみについて、私は考える機会がありませんでした。

それでも自分の国を愛せない理由

オーストラリアに来てから、子ども達は英語環境で教育を受けています。

特に息子については、完全に英語が第一言語のようになっています。彼がこちらの言語環境に馴染む速度は、私の想像を遥かに超えていました。彼の表現は、完全に「英語仕様」です。でも息子自身は、自分のアイデンティティは「日本人」だと思っているようです。

娘も、やはり日本の音楽やアイドルなどのカルチャーが好きです。英語環境でしっかり力をつける一方、やはり「日本的なもの」に親和性を感じるようです。彼女は日本語ネイティブとしてまだやっていけると思いますが、やはり年齢にしては日本語がつたないと言えます。

ある意味子ども達は、日本人でありながら「日本語を失っている」と言えるかもしれません。

私は、それでよかったのか、と時折考えることがあります。

また、海外生活の中で、「日本の文化や行事を子ども達になかなか教えられない」ことはデメリットかもしれない、と、過去記事でも書きました。

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確かに、その国の言葉文化というのは、深く関わりがあるのでしょう。

「日本らしさ」を作っているのが「日本語」だとしたら、その「日本らしさ」って、なんでしょうか?

たとえば先に紹介したインタビューの中の、「(日本語の特性が)互いに思いやる文化を作ってきた」「英語を母国語とする人は、最初から自分が中心にいる」。

わりとよく言われますよね。

思いやる文化って、何だろう?

自分が中心にいる=思いやりがない?

たとえば日本では、「国や組織のために、自分を犠牲にする」という考え方があります。「集団の成功と、個人の幸せは、相反するもの」と考えられています。

「自分が幸せになりたい」と言うと、「自分勝手」とか、「周りの人のことを考えていない」とか、そういうことになりますよね。だから、会社のため、部活のメンバーのため、チームのため、グループのため、国のため……に、とことん自分を合わせていく。

でもオーストラリアに来て思ったのですが、こちらでは、「集団の成功と、個人の幸せは、両立すると考えられているようです。

たとえばオーストラリアだって、やはり国民は「国の繁栄のために勤勉であること」を求められます。しかし、それは個人がその人ならではの能力を発揮することで、結果的に集団に貢献する、という考え方です。だからこちらの教育では、「全員がすべてを人並みにできること」よりも「その子個人がどんな面により優れ、何に向いているか」が、強くフォーカスされるのです。

個人としての人生を充実させ、幸せを追求することと、属する集団(会社・地域社会・国)の発展は、相反するものではない、という考え方の社会。いや、個人としての人生を充実させることこそ、社会への貢献になる、という考え方。

私はこちらに来て、「個人としての幸せを求めることが、批判されないって、とってもラクだな。」と思いました。

こうした考え方の違いは、やはり文化や言語の違いによるものなのでしょうか?

私はこれまで日本で生きて来て、日本の文化を「当たり前」と思って受け入れてきましたが、オーストラリアに来て、いかに自分が「個人としての生き方」を抑え、型から逸脱しないように神経をすり減らしてきたのか、ということに気づきました。

こちらに来て、「自分らしく生きてよいんだ」と、すごく気が楽になったのです。
(と同時に、なんで40年も日本でしか生きなかったんだろう、とも思った)

いまだに英語の壁、異文化での生活の苦労、こちらのコミュニティに入り込めない難しさ……。自分の国に住んでいれば味わわなくてすんだであろう、色々な困難はあります。

でも、そうした面を差し引いても、「自分は価値ある個人として生きてよい」と思えることに、私は何倍もの安堵を感じています。

私は「日本らしさ」から離れることで、それを手に入れました。

だから、子ども達に何がなんでも日本語を教えよう、という気持ちに、正直あまりなれないんですね。楽しめる範囲で共有したいとは思いますが。

子ども達には、「日本人」ということより、個性を持った個人として、幸せに生きてほしいです。

まとめ

というわけで、「英語至上主義は危険」という意見、母国語を失うことの重大さ、ということも、考えないわけではありません。

私自身、やみくもな英語の早期教育にはあまり意味がないと思うし、「国際人」として通用するためには、「英語がペラペラ」以上に「どんなことができるか」と言う事の方が重要だ、という考えには大いに賛成です。

が、少なくとも英語を勉強することは、「個人として幸せに生きる」選択肢を増やすことにはなるんじゃないかな、と思います。

日本と言う国が、国民一人一人の幸せを支え、その元に繁栄する国であれば、私は一日本人として母国を誇りに思うでしょう。思いたいです。でも、国が国民の幸せや生き方を制限するような存在であるなら、そこから離れた方が、幸せになれる人は多いかもしれません。たとえ、物理的に日本を離れることはできなくても、「日本らしさ」とは違う価値観を取り入れることで、ラクになれる人はきっといると思います。

そんな時、英語を学ぶことは、大きなアドバンテージになるのでは。

何にせよ、「国民が英語を学ぶ」ということが、国にとってよかろうと悪かろうと……。個人にとって英語を学んでマイナスにはならないと思います。学校のためでも会社のためでも国のためでもなく、自分のために。

明確な結論はありませんが、思ったことを書いてみました。

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